昭和48年12月01日 朝の御理解
御理解 第61節
「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。」
尽きぬおかげの頂けれるお話、いうならお徳を受けるお話、お徳を受けて行くにはどういう状態にならなければならないのかというお話。そこに尽きぬおかげが約束されるわけです。おかげを受けて神心となりて、いうなら親切な心、自分が助かった事を、それを又人が助かられる為に話をさせてもらう。人に丁寧に話をして行くのが、真の道を踏んで行くのぞと。真の道を踏んで行くのがそれだけではない。
此処は神心となりてそれを丁寧に人に話をして行くいのが、真の道を踏むのぞとおっしゃるが、真の道というのは他にも色々あります。此処では成り行きを大事にして行く道、それを真の道だというふうに申しますね。又、真の道というのは、色々と説かれております。けど此処ではおかげを受けた事を人に神心とてなりて伝えて行く。丁寧に話をして行く。それが真の道を踏んで行くのぞと。おかげを受けるというても、例えば合楽の場合なんかはもう、どこまでも和賀心、おかげは和賀心にあるんだと。
昨夜は月末の御礼信話会がございましたが、もう終始心と言う事であった。問題は自分の心を確認する。ああこんな心ではいけないと、それを綺麗にして行こうと努力する。有難い綺麗な心になって行っておる。自分で自分の心を拝みたいような心を感じれる。ところがまた汚れる、又垢がつくように心の中が汚れる。それを感じる。それを又清めて行く。それは毎日、毎日お風呂に入っては、毎日やっぱり垢が出るようなものだと。もう今夜風呂に入って磨いとるから、もう明日はええと言う事では決してない。
そして心を中心にして、いつもその心を、自分の心を見つめ、見極めて行くと言う事。そこに人間の幸せの条件が足ろうてくるんだという。一つの思い込みが段々出来てくる。もうですから本当におかげは和賀心にありである。そこに体験、限りなく美しゅうなろうとする心の姿勢というか、それに本当に、成程、おかげは和賀心にあるんだというおかげを感じ、体験して行くことが出来る。
まあ合楽ではそこんにきをいよいよ焦点にしてのいつもお話である。けれどもおかげを受けると言う事はいうならそれだけじゃない。例えば甘木の初代などは、私はいわゆる天地の大恩を感得されるというか、感じてまあ大恩に対する神恩報謝の心というものが、もう誰よりも強いお方だったであろうとこう思う。又の御理解に神の大恩を知れば、子孫も続き身代も出来、年勝り、代勝りのおかげが受けられるとはっきり教えて居られる位ですから、私共が天地の大恩を本当に分らせて頂く事の為に、様々に精進する。
分っただけでなくて、天地の大恩が分る。大恩に報い奉る生活をする事によってです、真の道を踏んで行く事であり、それでおかげを受ける。又熱烈な祈念力と、神様に御祈念をする力が強い。そこから現れてくるおかげ、だからおかげはどうでなければならんという事はない。おかげを受けると言う事は、又はそれにてお徳もついてくる道は、自ずとついてくるのだというふうに思う。
例えばこの六十一節等をこうして頂いとりますとです、本当におかげを受けた事を神心となりて一生懸命に、それを人に丁寧に伝えて行く。その事によってお徳を受ける。その事によっておかげを自身受けて行くという生き方。もうですから同じ、合楽で御縁を頂いとっても、和賀心などと言う事は全然その心の確認といった事やらは、しないなりにおかげを頂いとる人が沢山あります。
一生懸命御用する、一生懸命お参りをする、そしてやはりおかげを受けておる。けれども一番自分自身が助かると言う事は、何と言うても心を大事にする事だとこう思う。その最高のところが、私は神心だと思う。心を大事にして行くという、そこから生まれてくる心を私は真心と、又はお道でいう神心というふうに思う。それで熱心に人にお話をして行くというか、又は熱心にお参りをするというか、又は熱心に御用をさして頂くというか、いろいろなそういうまあ、いろいろな生き方があるが。
お互いの信心が大体どこをどういうふうに中心にしておかげを頂いておるかと、金光教の信心はそういう意味で非常に巾が広い。おかげは和賀心にありと言う事だけでなくて、おかげは例えば人にお話を、金光大神に頂いた御教えを、それを人に伝えて行くと言う事だけでも、それは真の道をふんで行くのであり、それが神様への御礼だ、一番の御礼だというようなふうにおっしゃっておられますから、お礼が手厚く出来のですから、やはり神になるのだとまで言っておられます。
私は昨日、信話会が終わってから、本当に心と言う事に焦点を置いて、お互い信心の稽古をさしてもらう、和賀心、知っておるけれども日々それを本気で取り組む、一寸した自分の心の動きも見逃さないで、それを信心で改めて行こうとする、そういう生き方というか、けれどもそれではなくても、おかげを受けておる。徳を受けておる人もあるのだから、これは必ずしもそうなって、いうならそれぞれの流儀があってよいと言う事を、私は昨日感じました。
昨日皆さんの話を頂き終わってから本当に心を、自分の心を、おかげは和賀心にあるのだから、心を清めたり、美しゅうなる事につとめて行くという、もう信心はここだというふうに、まあ見極めて、その思い込みがもし出来たとするならばです、例えば、昨日最後に、昨日は司会を末永先生が致しましたから、もうその事を最近、取り組んである。いろんな体験を話しておりましたが、もう、素晴らしかったですから、これは末永先生に限った事ではないけれども、私が申しました。
末永先生が、今の状態をいよいよ深めて行くならば、もういつ布教に出ても、人が助かるだろう。もう結婚するというならば、もうその生き方で行けば、必ず夫婦円満、幸せのおかげを頂くだろう。商売を始めたいというならば、もうそれを一つ持って行きゃ、商売はもう資本なしに、商売繁盛のおかげが頂けるぞ、という程しのものだと言う事を、昨日話した事です。
結婚したい、一般では例えば結婚なら結婚でもまず、これは結婚して夫婦で食べて行けるかどうか、いうならば生活力が自分にあるか無いか、いろんなその二人が生活して行く為の条件というものが、自分に足ろうておるか、只結婚すれば幸せになれると言った様な、安易な考え方で結婚する。だから不始末に終わったり、又は幸せいわゆる途端に苦しい事になってくる。だからそう言う事は何にも要らない。
そんな条件は要らない。問題は心一つを、人間幸せになって行く為には心一つが、だからそれが出来たら、商売は資本がなくても出来るし、繁盛のお繰り合わせが頂けるし、結婚は幸せな結婚生活をして行く事が出来るし、例えばなら、末永先生の場合を昨日申しましたから、布教に出るというなら、そういう心の状態なら、もう私は布教にどこに出ても、どこに投げ出しても安心して、私が安心して布教に出せれるという程しに、私は思っていますけれども。
なら果して合楽の方達がそれをそれ程に頂いておるかと、頂いておらんでもおかげを頂いておると言う事で、そこで例えば、なら一生懸命に自分のおかげを受けた事を人に親切な心で話をして、神心となって話をして人をお導きをする、助かる、それが神様の御礼にでもなる事であるから、おかげを受ければお徳を受けるという方もある。いわゆる、なら甘木の親先生のように、天地の大恩をいよいよ深く広く分らせて頂いて、あのように大徳を受けられて、あのように人が助かり、御自身も助かって行かれた。
だからどれとこれと、話を区別する事も出来ませんけれども、大体そういうふうに思うのです。合楽では心を中心、いわゆるおかげは和賀心にあるという、そこにおいとりますけど、そのように和賀心、昨日のように熊谷さんの話とか、久富先生の話とかを聞かせて頂いてです、もうそれ程いうならば、私の言う事をいうならば、マスタ-して、そしてそれを生活の上に現して、もう何とも言えんすんなりとした生活、信心、同時におかげもそれに伴うとるというその状態。
大体は私はそうなって皆にほしいのです。そして天地の大恩も分って欲しいのです。同時におかげを受けておる事も人に熱心に伝えて真の信心をさせる働きをさせる事も欲しいです。いよいよ天地の大恩を深く広く分らせて頂いて、いうなら日勝り、月勝りのおかげと仰る神の大恩を知れば、人間の幸せの条件が足ろうてくる。だからそれ一つでもよいのですけれどもです、結局やはり心を中心として、今申しました様な所にも本気で分って行くところの、信心を身につけて行って欲しいと私はまあ願う。
私自身もそれを願っておる。これは私が永年、和賀心と言う事を、まあいうならば、いろいろな角度から説いてきたけれども、それに本当に取り組んでおるという人は沢山はいない。例えば今、末永先生が取り組んでおるような、取り組み方をしてない。最近熊谷さんが取り組んでおられるような、取り組み方をしてしいない。それでもおかげを受ける。だからおかげは広い、いろいろな生き方で熱心に、例えば御用をする、そこからおかげを受けた人達もある。
ですからとっても私は、そのどれが出来ればよいというのじゃなくて、そのどれもがやはり、一つに溶け込んでしまったような、信心をさせて頂く。そこから私は、神への御礼と言う事も、神になる事も、又は神より上になると言った様な、不届きな心などは、勿論おかげは受けられないと言う様なふうに思うのです。例えば甘木の初代の親先生が、天地の御恩徳を誰よりも広く、深く感得された、だからそれだけかというとそうじゃない。今日私が申しました。
そんならすべてのところに御信心は深くしておいでられた、広くしておいでられたと思うのです。けどもお互いの場合は、どこのところが一番、焦点にされておかげを受けておるかいうならば合楽で一番やかましく言っておるところの自分の心を、こういう心ではおかげを受けられる、受けられないと見極めをして、然も日に日にその心の有難い、おかげの受けられる心の確認をしながら、日々進めて行く。それでいて今日の六十一節の様な所を分らせて頂く。
本当の意味でそういう全てが足ろうて段々きながら、真の信心をさせるのが、神への御礼になるのであろうと思うし、又それが神になるのだと思うです。例えば此処で六十一節では和賀心と言った様な事は全然言うてはない。只おかげを受けた事をそれを間違わんように、人る伝えて行くと言う事。だけしかない、然もそれが真の道を踏んで行くとも説いとられます。けどもこの私は、この御理解の例えば神心となりてと言う所から考えますとです、私がいつも申しております。
心に中心と言う所が本気で出来てそして、御用も出来て、又は天地の大恩を知って、神恩報謝の心をもって、そして私は話して行くと言う事、人に伝えて行くと言う事、というふうに私は頂いていかねばならんというふうに思います。でないと最後のおかげを受けて、神より上になると言った様な心がきざしてきたんでは、又おかげを落とす事になりますから。いよいよ心を中心に、自分の心に一寸慢心気なところが起きてくると、すぐお気付でも頂けるような状態。昨日嘉朗さんがそんな発表しとられました。
一寸自分の心の中に間違ったいうなら、慢心の心が起こると、もう有難い事にでも有難くない事にでも、はっきりと神様が現れて下さると言う様なおかげを頂かないと、いつの間にか神より上になるような心が生まれてくるのです。神より金光大神にいつまでもつきぬおかげを話しておくのぞ、と言う事を今日は私は、舌たらずですけれども、あらぬる角度からこれならばつきぬおかげを受けられる、成程つきぬおかげの受けられる、お話だと言う所を、大体聞いて頂いたのでございます。
どうぞ。